2016年8月30日火曜日

通化事件

ねずさんのブログです。



引用


通化事件の情況については、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の末、やっとの思いでどうにか無事祖国にたどり着くことができた外科医婦人中郷三己枝さん(当時27歳)の手記があります。
まるごとご紹介します。

***
支那八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と在留邦人の中の抗議派の人々が、
国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった。

その中心人物は藤田大佐で、かつて戦車隊長として雷名をとどろかせた猛将として有名だった。
昨年六月、通化にやってきた今利(いまり)中将ひきいる第百二十五師団の参謀長だった。

この人たちが、どのような手段で決起したのか知る由もなかったが、総勢、約千名が、二月三日の未明を期して一斉に蜂起した。
それは暴動のようなものではなく、それぞれ攻撃目標を定めた組織的な反乱だった。

しかし、たのみの国民党軍は呼応しなかったし、同時に立ち上がる予定の航空隊は、八路軍(支那共産党軍)の先制攻撃を受けて参加できず、それ以上悪いことに、反乱軍の動きは、八路軍のスパイによって探知されていたため、奇襲攻撃はことごとく失敗に終わった。

部分的に要所を占領した部隊もあったが、それも数時間で壊滅してしまい、敵弾にたおれ、傷ついて捕虜になった者も多く、壮絶な戦死を遂げた者もすくなくなかった。
この反乱は、わずか数時間の後に完全に鎮圧されてしまった。

血に彩られた旧正月の朝は明けた。
おびただしい死体が各所に散乱していた。
この事件は八路軍に大きな衝撃を与え、日本人に対する怒りは頂点に達した。
これは日本人弾圧の絶好の口実となった。

やがて恐ろしい報復が行われ始めた。
元旦を祝って家族がささやかな朝食についたとき、八路軍の兵士が侵入し、夫たちを引き立てて行った。
通化市内では、16歳以上60歳までの日本人男子は、ことごとく八路軍兵舎その他に集合せよと命令された。
市内は恐怖のるつぼと化した。
八路軍側は、抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである。

この反乱にまったく無関係の者も、反乱に反対だった者も、ほとんど差別されなかった。
とくに兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。
そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、
 わが軍は多大の犠牲を受けた。
 諸君は同胞として、
 その罪を免れることはできない。
 わが軍は報復として、
 ただちに諸君を銃殺に処する」

その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。
みるみるうちに、ばたばたと倒れた。
重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。

死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び、元憲兵隊の監獄や、公署の防空壕の中に分散監禁された。
監禁された日本人は、狭い部屋に何十人も押し込まれ、身動きすらできない中で大小便垂れ流しのまま五日間もの間立ったままにされた。
苦しさのあまり「出してくれ」と叫んだ者があると、銃弾が撃ち込まれてくる。
発狂する者もあれば、中には立ったまま死んだ者もあった。

しばらくして取り調べがはじまると、ひとりひとり引き出され、反乱軍との関係の有無を詰問される。
そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。
その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。
そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。
酷寒二月のことである。
たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。
やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。

するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。
これが毎日のように行われた。
なんという地獄絵図だろうか。

一週間目ごろから、ぽつぽつ釈放者が出るようになったが、帰って来た人も、無傷な人はいなかった。
手を折られた人、足を折られた人、杖にすがってやっと家にたどり着いた人。
帰ってからも発熱のために苦しむ者。
凍傷のため、廃疾者同然になった者などが大部分で、五体満足で帰って来た人はわずかであった。

抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。
殺害された者はそのまま立ったままでいるか、他の抑留者の足元で踏み台とされた。
また、数百人が凍傷に罹り不具者となった。

拘束から五日後、部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが、その場で撲殺された。
撲殺を免れたものの多くは、骨折した手足をぶらぶらさせていた。

その後、支那共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われた。
女性にも多数の処刑がされた。
渾江川の上には、服をはぎ取られた女性の裸の遺体が転がった。

男たちが拘束されている間、支那共産党軍の兵士たちは、日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦することもあり、凌辱された女性の中には自殺するものもあった。

事件後、3月10日になると、市内の百貨店で支那共産党軍主催の二・三事件の展示会が開かれた。
戦利品の中央に、蜂起直前に拘束された孫耕暁通化国民党書記長と、二月五日に拘束された藤田実彦大佐が見せしめとして三日間に渡り立たされた。

3月15日に藤田大佐が獄死すると、遺体は市内の広場で三週間さらされた。
渾江(鴨緑江の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんだ。
 

引用以上


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