引用
1945年8月6日午前8時15分、広島市島病院上空で何があったのかをみていきましょう。
上空580メートルで炸裂した原爆から照射されたガンマ線、中性子線を中心とする高エネルギーの放射線は、直下の人々の頭上に降り注ぎました。TNT換算で15キロトンでした。
その結果、当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約半数に当たる9万から16万6千人が被爆後2カ月から4カ月以内に死亡したとされています。
ではなぜ、この広島に原爆が投下されたのでしょうか。もちろん韓国中央日報キム・ジン記者が傲岸に言うように「神の懲罰」などではありません。
1945年(昭和20)年6月の検討会議で、原爆の使用については、「労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無し」で投下すべきだと決定されました。
この会議では開発に携わった科学者の一部から無警告の原爆投下に反対する発言が相次ぎましたが、結局押し切られてしまいました。
後に、これに関わった多くの科学者は終生、良心の咎めを受け続けることになります。
実際、当時の我が国には継戦能力はほとんど失われており、政府、軍部内にも和平を模索する動きが強くなってきていました。
軍事的に見ても、まったく広島・長崎への2発の核攻撃は不要なものだったのです。
もし軍事的な攻撃目標が必要ならば、広島の近隣にある呉軍港を標的にすればいいのであって、非戦闘員が大部分を占める都市に対しての核攻撃にはいかなる正当性も見いだせません 。
百歩譲って軍事的圧力により日本を降伏に追い込みたいのならば、後にさんざん核実験をしたような無人島で実験してみせればいいのです。それだけで、当時の日本政府は降伏を決意したでしょう。
米国は、大戦の後にくるであろう対ソ戦に備えて核兵器の実戦データを欲していました。砂漠などの実験では威力が読みきれなかったからです。
ですから、現実に人が大勢住む都市で、無警告に落としてみる「必要」があったのです。このようなことを人体実験といいます。
広島・長崎合わせて約21万人の犠牲者は、生きながらにして人体実験に供せられたのです。
言う必要もないですが、非戦闘員の大量殺戮だけを目的とした明白な戦争犯罪です。
これを戦争犯罪と呼ばなければ、なにを戦争犯罪と呼ぶのですか。
「だけ」と書いたのは、先程述べたように広島市には師団司令部があるのみで、軍事目標は皆無に等しかったからです。
引用以上
日本人は虐殺しても構わない。当時の米国首脳はそう考えていたと思います。
ソ連が参戦するという情報を得たからこそ、その後に世界戦略を優位に進めることを目的として、原子爆弾を広島、長崎に投下しました。
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