2017年1月11日水曜日

ロシアの子供達を救った日本人

みずきの女子知韓宣言さんのブログです





引用




ロシアの子供800人を救出した日本人

趙甲濟(チョ・ガプジェ)の超少数派サイトから井戸の外のバンダービルドさん。

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ロシアの子供800人を救出した日本人

バンダービルド


2011年、ロシア人女性の一人が、ある日本人墓地に献花するために、日本を訪問した。
その女性の名前は「オルガ・モルキナ」で、彼女はこう言った。

「私がこうして生きていることができるのは、おじいさんやおばあさんを救出してくれたある日本人のおかげです。その日本人は、多くのロシア人の命を救ってくれた恩人です。」

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オルガ・モルキナ


過去90年間、これに関連する話は、世の中に知られていなかった。 
1873年、愛媛県松山市で生まれた「勝田銀次郎(1873~1952)氏は、18歳の時、今日の青山学園にあたる東京英和学校に入学した。
卒業後は海運業界に飛び込んで仕事を学び、27歳で独立し、「勝田商会」という貿易会社を設立した。
それからしばらくして、ロシアでは革命が勃発する。
そして、北欧バルト海沿岸に位置するロシア第2の都市サンクトペテルブルク(過去名レニングラード)が、革命の渦のため治安が極度に悪化して、食糧不足の事態に直面することになる。
これにより、当時サンクトペテルブルクの多くの親が、子供の安全を心配し、遠く離れた田舎の地方(ウラル地域)へ子供たちを疏開させた。
しかし子どもたちが避難した農村地域にも革命の戦火が押し寄せて、サンクトペテルブルクから避難してきた子どもたちは、事実上、難民と変わらない状態に転落してしまった。
このように困難な立場に陥ったロシアの子供は、約800人だった。

それで米国赤十字社が、800人のかれら児童を戦火から保護するため、児童を一時的にウラジオストクの施設に移動させた。
当時の緊急対策は、ひとまず800人の子供たちを、革命の渦が続く不安なロシアの地から離すことだった。
そして故郷のサンクトペテルブルクに近い安全な国に留まらせた後、ロシアが革命による混乱が完全に鎮静して安定したら、子供たちを親の懐に戻すという計画を、米国赤十字社が策定した。
米国赤十字社は、世界各国の船舶(運送)会社に依頼して、ウラジオストクの一時施設に収容されているロシアの子供800人をヨーロッパに運んでほしいとお願いした。
ところが、世界各国の企業から帰ってきた返事は一様だった。
答えはすべてが「難しい(「NO」)」だった。
米国赤十字社は、最後の希望だと思って、日本の会社にも依頼することにした。
そして、この時に依頼を受けた会社の一つがまさに「勝田商会」だった。

いつも他人を助けることに積極的だった「勝田」だったが、悩まないわけにいかなかった。
当時は日露戦争が終了てわずか十数年しか経過していない時点で、資本主義の旗を掲げていた日本と、今まさに革命的社会主義が確立されたロシアは、互いに敵対関係になるしかない状況だったからだ。
困難な状況に陥ったロシアの子供たちを救ってあげたかったが、もしこのような事実が日本に知られたら、敵対関係にあるロシアを助けたという理由で非難を浴びて、会社が倒産するかもしれなかった。 
「勝田」の悩みは深くなっていった。
さらに、「勝田商会」は、貨物を運搬する海運専門会社だったため、貨物ではなくて、子供たち800人を宿泊させて長期航海するほどの旅行船舶も保有していなかった。
悩んだ末に、「勝田」は結論を下した。

「ロシアの子供800人を助けよう!」

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勝田銀次郎


そしてすぐに会社が保有している最新の貨物船「陽明丸」号を旅行客船に改造する作業に着手した。
長期間の航海中で800人の子供が不快感なく生活できるよう、寝室、洗面設備、トイレなどの生活施設を整えた。
こういった船舶の改造作業に投入された費用は、「勝田」の私財でカバーした。
当時、船の改造費用は、今の貨幣価値で計算すれば数千万円に達した。
船舶の全面改造作業には通常は1年かかるが、急いで1ヶ月で完了させた。 
1920年7月、「陽明丸」号は神戸港を離れてウラジオストクに到着し、ロシアの子供800人を乗せて出発した。
子どもたちの故郷のサンクトペテルブルクに近いヨーロッパのフィンランドが目的地だった。
航路は太平洋を東進し、パナマ運河を通過するルートだった。

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陽明丸


「陽明丸」号は途中、北海道の室蘭に寄港した。
そして、「陽明丸」号の船長の「茅原基治」氏は、すぐに室蘭の官庁を訪れて、すべての責任を自分が負うという条件で、ロシアの子供たちの日本上陸の許可を受けた。
そしてロシアの子供たちと一緒に訪れたのは、北海道室蘭小学校だった。 
「茅原」氏が官庁にお願いして、ロシアの子供たちと日本の子供たちの交流の機会を設けたのである。
小学校の日本の子供たちは、ロシアの子供たちを温かく迎えた。
お互いに言葉は通じなかったが、両方の子どもたちがお互いに親しくなるのに多くの時間はかからなかった。
以後「陽明丸」号はフィンランドに向けて本格的に運行を開始し、3ヶ月後に目的地のフィンランドに到着した。
子供たちはフィンランドにしばらくとどまった後、最終的にサンクトペテルブルクの親たちの胸に無事に抱かれた。

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茅原基治船長

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この物語は、過去90年間知られていなかった。
しかし、おじいさんとおばあさんからこの話を聞いたロシアの女性「オルガ・モルキナ」氏が2009年にロシアで出会った日本人(「北室南苑」)に、こういった事情を話すようになった。
そして、初めてこの物語が日本に知られるようになった。
帰国した日本人の「北室南苑」氏が、ロシアの女性「オルガ・モルキナ」氏のために、「勝田銀次郞」氏と、船長の「茅原基治」氏の軌跡をうわさをたよりに尽力を尽くして探し、最終的に二人が眠っている墓地を見つけることができた。
そして2011年、「オルガ・モルキナ」氏は日本を訪問し、おじいさんとおばあさんの生前の意思を継いで、恩人だった二人の日本人墓地に感謝の気持ちで献花した。




引用以上



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